制作のいきさつ

それは私が日本からカナダに戻った1週間後に起こりました。日本時間で2011年3月11日の午後2時45分、東北の三陸地方が大地震と津波に襲われ18000人もの死者を出した大惨事、東日本大震災です。人命や生計を奪う大被害は日本ばかりでなくカナダにいた私も含め海外の人々にも大きな打撃を与えました。「日本に帰らなければ」心の中はその事一色でした。

私の実家は東京です。被災地からは遠いいのですが、この大都市の電力が今や破壊された福島の原子炉に頼っていたという事実を知り、絶望的になりました。想像を絶する自然の破壊力、滅亡的な爪跡、増え続ける死者の数などをネットやカナダのメデアで日々みるにつけ、何かしなければ、でも何をすればいいのか、と気は焦るばかりでした。

カナダで必要なものを買い込み2ヶ月後の5月に東京の娘と合流して気仙沼の唐桑町という村でボランテイアのチームに入れていただき、瓦礫の仕分けをさせてもらいました。今思えば微力な行動も動揺した自分たちの気をしずめるためだったのかもしれません。その往復を利用して岩手県の田老から宮城県の名取までの各地を巡り、その復旧活動をカメラに収めました。被災者ご家族や、関西から駆けつけた阪神・淡路大震災の被災者ボランテイア・メンバーなどからも話を伺うことができました。その映像をまとめて短編ドキュメンタリー映画:Road to Recoveryと題してカナダのトロントで企画した義援金集めのコンサートで上映しました。その後この映画は海外でもファンドレージング用として自由に使ってもらいました。

しかし震災や被災に関して私の理解は外部者としての表面的なものにとどまっており、苛立ちさえ感じました。本当の被災とはどういうものなのか、人々はどのようにして乗り越えて、あるいは乗り越えようと努力しているのだろうか。少しでも被災者の気持ちに近ずくためには内側から、つまり地元の方々の日々の生活の中に入らなければ不可能だということに気付いたのです。

ふたたび娘と陸前高田市を訪れたときはバスで知り合った方が仮設住宅に招待してくださり、足の踏み場もないほどの支援物資を見せてくれました。質素なテーブルを五人で囲んでお茶をすすりながら楽しい団欒のひとときはかけがえのない体験になりました。その時、震災後一番困ったのは薬を飲むコップがなかったことだ、と聞き、繊細な支援の必要性をひしと感じました。志津川では支援で届いた車でもう一度タクシー業を再開した中年の女性に乗せてもらい感動しました。こういった様子はトロントの日本語雑誌Bitsの「サンドイッチの中身」のコラムにも書き、多くの方々が読んでくださいました。被災した方々の気持ちを少しでも理解してもらえたのではないか、と思っています。

さて、ここから長面(ながつら)の話に繋がります。私が三陸でボランテイアをしていた頃トロントでは宮城県石巻市出身の友人、モガール和子さんが被災地応援の各種チャリテイーイベントで身を削るように走り回って義援金集めに奔走していました。その彼女が津波で流されてしまった長面の実家跡へいくと聞き、一緒にお供して記録を撮らせていただけないか、と日本からカナダにお願いの連絡をしました。震災で被災したご家族にカメラを向けるのはプライバシーの侵害でもあり、大変失礼なことになるかもしれない、と断られるのを承知の上での無理な希望でした。生活を取り戻そうとする人々の声は地元の人たちのオープンな対話の中にあると思い、是非後世のために記録に残しておきたいという気持ちでいっぱいでした。

和子さんは石巻市に住む福田裕子さんに連絡をしてくださり、数日後にはOKのお返事をいただきました。そして現地でのおよそ10日間、私は和子さんと福田家で寝食を共にしながら撮影をさせていただきました。『長面ーきえた故郷』はその10日間の記録です。

この撮影の企画をする段階でまず第一に私が決めたことがあります。それは被災した方々の日常生活の邪魔になるようなことはしないこと。カメラのための行動の指示は絶対に出さないいこと。そして生活の中に持ち込むカメラはできるだけ小型で違和感を感じさせないもの、という鉄則です。音声はカメラに外ずけした小型マイクと和子さんにはワイヤレスのラペルマイクを襟元につけていただきました。カメラと和子さんが離れていても、和子さんの周りにいる人たちの声もこれではっきりキャッチできます。映像は最高級でなくても音声は何よりも大事なエッセンスです。幸い和子さんの社交的で明るい性格から、彼女の故郷の親戚や友人の方々とのつながりも強く、出かける先々で非常にフランクでオープンな会話を収録させてもらうことができました。